椿咲く春日局菩提寺

本堂扁額 (埼玉・平林寺住職 白水敬山師書)

春日局の菩提寺

湯島 麟 祥 院

徳川家光の乳母で、大奥で権勢を誇った春日局は、幕府への報恩として湯島に寺院建立を思い立った。
聞き及んだ家光は土地を寺地として局に贈り、局はその地に「報恩山天沢寺」と名付け建立した。その後、局の法号から、渭川周瀏(江戸時代・臨済宗僧)を住職に迎え、改めて春日局の菩提寺とした。家光が法号(麟祥院殿仁淵了義尼大姉)をもって寺号にするよう命じたところから「天沢山麟祥院」と号するようになった。

棟門扁額(「幽鳥弄真如」 間〇宗筆?)
禅語 「人天眼目」 大慧下4世 晦巌智昭編(1188年)
「古松談般若 幽鳥弄真如」から
周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界に他ならない」の意

天澤山 麟祥院(てんたくさんりんしょういん)

所在地 東京都文京区湯島4−1−8

宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建 1624(寛永元)年
開基 春日局(徳川3代将軍 家光の乳母)
開山 渭川
周瀏(江戸時代、臨済宗僧)

本堂と客殿の境にある棟門

椿いろいろ

早春の陽が傾き始め、陽を背にした墓塔が長く影を落とし始めている。当初想像していた大きさとは違って小ぶりの墓塔であった。逆光の中、色は黒ずみ輪郭だけがくっきりと薄青色の空を切り抜いて、影絵のように佇立している。その影絵に黄、赤、白など供花がペイントを落としたように鮮やかな色を施していた。無縫塔で四方が貫通している独特の姿をしている。

「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」という法号を贈られた春日局を葬る墓塔である。

泉鏡花の婦系図を原作とする「湯島の白梅」の最高の見せ場である湯島天神。天神に添うように切通坂がある。今でこそ4車線の広い通りを持ち高層ビルが立ち並ぶが、歌人・石川啄木がやっとの思いで得た朝日新聞社の校正係の職場からの深夜の帰宅途中に歩いた頃は仄暗いガス灯の下を上り下りしたはずだ。

「二晩おきに

 夜の一時頃に切通の坂を上りしも―

 勤めなればかな」

と「悲しき玩具」に収めている。

春日通りの途中のすこし奥まったところに「海東法窟」と書かれた扁額を持つ山門が建っている。臨済宗妙心寺派の春日局の菩提寺、天沢山 麟祥院である。

春日通りの騒音はかき消されて森閑としている。入門するのを何となく拒絶しているような雰囲気を漂わせている。おそるおそる山門を潜る。訪れる人は少ないようだ。

庭に立つ椿の木は大きい。「隅切り角に三木」の局の家紋を彫りこんだ築地塀を屏風にしたように薄桃色の花が深緑の葉の間につつましやかに咲いている。苔むす地への落ち椿が余情を醸すように見えるのは私だけだろうか

万葉集に「右一首、荏原郡上丁物部廣足」として

「わが門の片山椿まこと汝手触れなな土に落ちもかも」

が載っている(巻20 4418)。今の東京都品川区荏原にいた農民が防人として遠く九州の筑紫の国に徴用され、望郷の念と残してきた恋人への情愛を吐露している。

この静謐な禅寺には似合わないがなぜか思い浮かべた。

春日局は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母として江戸城大奥の礎を築き、知恵伊豆とも呼ばれた松平伊豆守信綱、柳生新陰流の柳生宗矩と共に幕府を支える「鼎の足」の1人とも評され、朝廷との交渉に力を発揮した女性政治家の代表でもあった。春日局は朝廷から賜った称号だという。

平日だとはいえ、近くの湯島天神の賑わいからは忘れられたような、或は自ら拒絶するかのように訪れる人は少ない。あくまでも禅寺の静謐さを守っているようだ。

高く伸びた椿の生垣に珍しい蕊の太く大きい卜伴が紅い花をつけていた。

ご朱印を戴いて改めて春日局の墓塔に頭を下げ、喧騒の春日通りに戻った。

山門扁額(円覚寺管主 朝比奈宗厳師書 建長寺の法堂にも)

春日局墓所

山 門(戦災により焼失 1949(昭和24)年に再建

本 堂(戦災で焼失後1949(昭和24)年に再建