紅葉の寺

紅葉爛漫

「わざわざ京都まで行かなくてもここで十分紅葉の素晴らしさが味わえましたよ」立寄った蕎麦屋で数人の高齢のご婦人たちの会話に加わりながらお元気な声で聞かせてもらった。

新座にある野火止用水を結界にするように建つ禅宗の寺、平林寺。境内にある雑木林は武蔵野の面影を残すと、国指定の天然記念物に指定されている。栗、コナラ、橡、杉などの落葉樹が43ha(約13万坪)に林床の笹を裾のように平林寺の境内を、修行道場として大自然は不可欠ということで、開発の進められていた当時にこの一画を買い取り雑木林を守ってきたという。

「紫のひともとゆへに武蔵野の草をみながらあはれとぞ見る」(古今和歌集)

多摩川と荒川に挟まれた武蔵野台地は江戸期前までは歌にあるように「草の武蔵野」だった、という。民俗学者、宮本常一が「太古より17世紀の初めまでは(中略)ほとんど人の住むことのなかった野をひらいて人々は住みついた。そして一つの新しい風景をつくり出した。」(「私の日本地図」)と書いている。平林寺を菩提寺とする知恵伊豆とも呼ばれた川越藩主、松平信綱が指揮した玉川上水、そして野火止用水開削により多くの人が住むようになり雑木が植林され「雑木林の武蔵野」が姿を現れてきた。

国木田独歩の作品「武蔵野」が発表されて以来「雑木林の武蔵野」は人口に膾炙する。北は川越、西は府中の広大な落葉樹の野は「武蔵野を散歩する人は、道を迷うことを気にしてはならない。どの道でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」と独歩が言う広大さは望むべきもないが、ここ平林寺の雑木林は遊歩道のお陰で道を迷うようなことはあり得ない。それでもその面影は十分に味わえる。独歩が触れることはほとんどないモミジが遊歩道に沿って或いは伽藍の周囲に植えられている。茅葺屋根の総門を潜るとまっすぐに伸びる敷石から正面に山門である楼門形式の茅葺の仁王門が聳立しその奥に同じように茅葺の仏殿がそれぞれ木肌になった伽藍を形作っている。道場が、鐘楼がそして本堂、本坊が置かれそれぞれの建物の近くにモミジの木が配されている。晩秋から初冬にかけて一斉に紅葉する。栗、コナラ、橡などの高木はそれぞれに葉を落とし始め、高木にそれまで陽の多くを遮られていたモミジ葉の紅葉は輝きを増す。殊に閉門間近い夕方、陽が傾き、最後の輝きは遊歩道を覆うように紅葉のトンネルを錦秋という表現に妖しさを漂わせ「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」という三橋鷹女の句を彷彿させる。蕎麦屋のご婦人の言葉に嘘はない。

春から夏にかけての平林寺はそれこそ修行道場にふさわしい静謐さが全山を覆う。夏安居の時季は道場からだろう読経の声が大きくなったり小さくなったりしながら聞こえてくる。蝉もまた、読経の邪魔にならぬよう鳴き声を鎮めている気さえする。紅葉したモミジ葉とは違い夏モミジの美しさも捨てがたい。強い光は繁る高木の葉を射通すように、繁る高木の葉の間から漏れるようにモミジ葉を若緑、萌黄、時には鶸萌黄に変化させる。時には半僧坊権現が扇ぐ羽団扇の風がその緑の彩を揺るがせて、新涼の気配を味合わせてくれるのだ。

独歩が失恋をせず、信子とともに夏の、そして錦秋の紅葉の時季を歩いたらどのような「武蔵野」が生まれていただろうか。

         平林寺の雑木林ともみじ

山門仁王像(左 阿形 右 吽形)

仏殿三尊像(本尊 釈迦如来像 脇侍 阿難尊者・迦葉尊者)

【石川丈山】
安土桃山時代から江戸時代初期の武将であり、文人。
大阪夏の陣で徳川方として参戦。その後、浅野家に仕官し安芸(現広島県)で生活したが母の死去に伴い、京都・妙心寺に隠棲。更に洛北に
「凹窼」(現詩仙堂)を建て終の棲家とした。平林寺の各扁額の揮毫を詩仙堂の丈山に依頼したとある。
江戸初期の漢詩の代表的人物。儒学、書道、茶道、庭園設計にも精通。暑では隷書が優れているという。号は多く使われ、ここ平林寺の扁額にも「凹凸窼」「六六山人」が使われている。
なお、鎌倉・浄智寺三門の扁額「山居幽勝」も丈山筆と聞いている。
                   (一部wikipediaより抜粋)

野火止用水
1655(承応4)、知恵伊豆とも呼ばれた川越藩主松平信綱により、武蔵野開発の一環として野火止台地開発のため開削された用水路。
玉川上水から引水し、野火止台地を経て新河岸川(現川越市)に至る全長25キロ及ぶ飲料水の確保を目的とした用水。現在、平林寺の結界を示すように一部流れを保っている。
(平林寺発行 小冊子より抜粋)

本堂扁額(石川丈山筆)

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平 林 禅 寺

総門扁額(「金鳳山」 1648年(正保5)石川丈山筆)

御朱印

金鳳山(きんぽうさん)平林禅寺 (へいりんぜんじ)

総門(切妻茅葺屋根・四脚門

山門(萱葺重層入母屋造仁王門 1663(寛文3)年 岩槻より移築
楼上には釈迦三尊仏と十六羅漢像が安置)

薀沢によって現在のさいたま市岩槻区に創建された当寺は1590年(天正18年)豊臣秀吉の岩槻城攻めの際兵火により伽藍の大半を焼失。その翌年、江戸入りした徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄り、開山経緯を知り、鉄山宗鈍禅師を迎えて中興開山とした。
大檀那であった大河内家から松平家に養子に入った川越藩主信綱が江戸と川越の中間の野火止に、移転することを計画、1663年(寛文3年)岩槻から
伽藍・墓石など一切を移建した。松平信綱夫妻の墓を始め大河内松平家の多くの墓石が並ぶ。
総面積が13万坪(東京ドーム9個分)に及ぶ国の天然記念物に指定された雑木林は独歩の「武蔵野」を彷彿させる面影が色濃く残っているが、寺によると拝観者の境内での狼藉が多く、妙心寺派の関東で最大の修行道場があり、修行の妨げが多く、立ち入り禁止区域が年々増えており、残念なことだ。
なお、総門前を通る道路を挟んだ反対側に電力翁とも呼ばれた安永安左エ門が移築した茶室「睡足軒」(国登録有形文化財)を中心とした雑木林の公園がある。

半僧坊の由来
 半僧坊の本尊は半僧坊大権現、即ち後醍醐天皇の第11皇子で遠州方広寺の開山 聖鑑識禅師に随時し、時として奇怪な風体の山の神化し、霊妙摩訶不思議の神通力をもつ神なり。(奥山半僧坊縁由記より抜粋)

仏殿扁額(「無形元寂寥」江戸時代書家・篆刻家三井親和筆)
※無形元寂寥 「形無くして元寂寥なり」 中国禅宗歴史書「五燈会元」の中の禅語

仏殿(萱葺入母屋造 山門と同様岩槻より移築 本尊安置 阿難尊者と迦葉尊者が脇侍 外から拝顔できる)

本堂(瓦葺入母屋造 1867(慶応3)年火災で焼失 1880(明治13)年に再建) 現在は立入禁止

所在 新座市野火止3-1-1

宗派 臨済宗妙心寺派(別格本山)
本尊 釈迦如来
創建 1375年(英和元年)南北朝時代
開基 大田備州沙弥薀沢(うんたく) 岩槻城主・太田道灌の父
開山 石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師 (鎌倉・建長寺住持)

半僧坊堂扁額(「感応殿」筆者不詳)

半僧坊堂(1894(明治27)年、鎌倉・建長寺より勧請 毎年4月17日
大祭が模様される)

山門扁額(「凌霄閣」(リョウショウカク) 石川丈山筆)