かっては逆井村字中島にあったが火災により字粟野巣に移る。江戸時代は鰭ヶ崎村(現 流山市)東福寺の末寺だった。本尊は不動明王と十一面観世音菩薩の2尊であったが現在は不動明王のみを本尊としている。元禄時代の文書には境内に2間半'(4.6m)四方の観音堂があった。
文禄年間(1592〜95)に火災に遭い、堂宇・古文書など皆焼失したという。その後寛保2年(1742)に権大僧都(?に古)鏡和尚が、字戸崎に本堂を再建、中興開山になったという。観音堂は焼失を免れたようだ。この堂が再建まで仮本堂であったと想定される。(以上「柏市史」より抜粋)
現在は四季を通して植栽された花が参拝客の目を楽しませてくれる。
千葉・柏
観音寺縁起
「観音」という言葉を最初に聞いたのは10歳ごろだったと思う。
「遠くちらちら灯りがゆれる あれは言問こちらをみれば」の歌い出しの浪曲「唄入り観音経」だった。浪曲好きの祖母の傍でラジオから流れるのを聴きながら「観音経って何?」と訊くと「観音様という偉い仏様がみんなのために働いてくれることを書いたお経だよ」みたいなことを言ったようだ。無論「ふ〜ん」ぐらいで分かりはしない。
観音様・・・観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩或いは救済菩薩と呼ばれ、般若心経では観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」と最初に出てくる仏様だ。
組織に擬えると如来というトップ層がいる。釈迦・大日・阿弥陀・薬師などの如来がおられる。その下に菩薩がいる。如来になるために修行をしながら衆生の悩み、煩悩、苦を取り除くことに奔走する中間管理職か。菩薩はいろいろな役割を持っている。文殊・地蔵・普賢・虚空蔵或いは薬師如来の秘書のような日光・月光菩薩など多士済々なのだ。
その中に観音菩薩がいる。仏教の代表的な経典である法華経の中の1章が観音経(第二十五品「観世音菩薩普門品」)観音菩薩の力を信じ、慈悲の心を信じ、その名を唱えれば、救われることが書かれた経文である。何しろ救済の範囲が広い。観音はそれぞれの内容に合わせて姿を変えて現れる。その姿は33にも。
飛鳥・奈良時代は鎮護国家・除災招福などが目的であったが、平安時代に浄土教が入って来て個人の浄土での救済が説かれるようになり、一気に観音信仰が流行していった。
西国、坂東或いは秩父33カ寺巡礼など、全国に100以上の札所巡りがあるという。
観音像は優しい姿で私たちの前に現れる。男性なのか女性なのか・・・発祥の地、インドでは男性だったが中国にわたって女性化していったという。日本でもその姿は女性的である姿が多い。時には何とも艶めかしい姿態になっていることも。どうも男性でもあり、女性でもあるようでジェンダーレス、ジェンダーフリーの走りなのかと思ったりしている。地蔵菩薩と共に多くの人から「お地蔵さん」そして「観音様」と親しみを込めて呼ばれている。お寺の名(寺号)に「観音寺」「観世音寺」を用いているお寺は多い。北海道から沖縄まで、更に台湾、朝鮮そして中国にもあり、凡そ170カ寺にのぼる。特に愛知県、三重県に多いのは何故だろう。
ここ、柏の観音寺もその一寺。豊臣時代に創建され400年余の歴史を重ねている。決して広い寺域ではないが境内はよく整備され、四季それぞれに花を咲かせる。牡丹の時期に訪れた折、豪放なイメージの高齢のご住職が曰く「牡丹だけじゃないよ。紫陽花もあるし紅葉もきれいだからまた来なさいよ」その後、彼岸花、紅葉と見せてもらったが確かに手入れもされて楽しませてもらった。
ご本尊は現在は不動明王だが、以前は観音菩薩との2尊が本尊だったという。
般若心経の写経でも、という気になっている。
所在 柏市逆井523
宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王
創建 文禄4年(1595) 豊臣時代
開基 不詳
開山 不詳
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観 音 寺 讃 華
(牡丹・彼岸花・紅葉)
観音菩薩雑感
山門
観音堂扁額(矢口武春氏書)
本堂扁額(真言宗豊山派 26代管長 岩堀智道師筆)
本堂(昭和42年(1967)新築)
観音堂