雷門(山門)扁額(「金龍山」良尚法親王筆)

浅草の桜

豊道春海師(本堂)
  明治11年(1878)生 享年92歳
   天台宗大僧正・書家 
   
昭和42年(1967)文化功労者に推挙(wikipediaより)
それまでの扁額は東京大空襲で焼失した後、写真を掲げていたが75年ぶりに新調。
「井波彫刻」で知られる富山県南砺市の彫刻家 南部白雲師が1枚板に彫った。

良尚法親王(雷門・宝蔵門)
   江戸時代初期、京都曼殊院門跡 175世天台座主
  絵画、華道にも通暁

宝蔵門(昭和39年(1964)再建 入母屋造二重門 鉄筋コンクリート造 ニューオータニの創始者大谷米次郎氏夫妻寄贈)

宝蔵門扁額(「浅草寺」良尚法親王筆)

淺 草 寺

扁額筆者略歴

浅草寺と界隈

朱印(令和改元日)

浅草神社朱印(三社祭)

金龍山 淺草寺(きんりゅうざん せんそうじ)

所在 東京都台東区浅草2-3-1
宗派 聖観音宗(天台宗系単立)
本尊 聖観世音菩薩(絶対秘仏)
創建 (伝) 推古天皇36年(628)
開基 土師中知(はじ なかとも)

五重塔(昭和48年(1973)再建 鉄筋コンクリート造 基壇高5m 塔高48m 塔の最上層に仏舎利を安置)

本堂扁額(「施無畏」 令和2年(2020)豊道春海師筆)

本堂(観音堂)(昭和33年(1958)再建 鉄筋コンクリート造)

「二九の尊二九の堂には二九の徳」と浅草寺を評した江戸川柳がある。

「二九」は1818分は約5.5pという小さな本尊を18間(約32m)四面の巨大な大本堂がお守りし、毎月18日には善男善女に功徳をくださる、と。

金龍山浅草寺 天台宗系ではあるが単立寺院。

社伝には飛鳥時代、推古天皇の代 628年、凡そ1400年前に隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に本尊といわれる聖観音像がかかった。兄弟は主筋にあたる土師臣真中知にこのことを告げ、岸辺に小さな祠を建てて祀ったのを創建としている。後年その3人は仏縁により神に祀られ、それが三社権現、今の浅草神社のご神体となっている。

「小兵でも坂東一の菩薩なり」江戸っ子が誇りにしている。山椒は小粒でもぴりりと辛いのだ。

天正18年(1580)の小田原攻めの折、家康は浄土宗の三縁山増上寺を菩提所に、当時天台宗であった浅草寺を祈祷所と決め、以降篤く保護をしてきている。

明暦の大火で寺域の北側に遊郭の吉原が設けられ、それまでの観音信仰と相まって、たちまち府内随一の盛り場となり、観音詣でを口実にお詣りもそこそこに吉原で女菩薩を拝みに出かける人が絶えなかった、という。「葬禮の戻りに不埒至極なり」の川柳のように。

東京大空襲で灰燼の後の復興は寺域の一部(瓢箪池)を売却したり、地元の人たち、篤信家の熱意により13年後の昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造りながらも旧堂を忠実に再現した本堂が完成。昭和39年(1964)に松下幸之助が寄進した雷門が、ニューオータニの創始者、大谷米次郎が寄進した宝蔵門が竣工。山門(雷門)、中門(宝蔵門)そして本堂が仲見世を挟んで一直線上に完成した。更に昭和48年、5mの基壇の上に48mの五重塔が再建され現在の威容が整った。

賑わう浅草寺界隈も昭和39年(1964)の東京オリンピックが開催されて以降若者たちの遊び場が新宿・渋谷或いは池袋などに移り、浅草界隈は閑古鳥が鳴くようになってしまった。

下町の気風がまだ残っている。男は意気(粋)で女は御侠(おきゃん)という言動が。「御侠」とは広辞苑によると「活発で軽はずみなところがある女。おてんば」とある。

樋口一葉の「たけくらべ」の美登利或いは永井荷風の「すみだ川」のお糸は御侠だった。今、御侠の代表というなら富永照子さんだと思っている。すしや横丁に「十和田」というそば店を構える生粋の浅草っ子の女将だ。何度となく話をする機会があったが「男はからきし駄目だから女が頑張んなきゃね」と。「浅草おかみさん会」を興し「全国女将さん会」に発展させ、今では浅草の名物となっている「浅草サンバカーニバル」を立ち上げる。更に「浅草ROX」という商業ビル建設に尽力してきた。まさに「おきゃん」の面目躍如なのだ。美形である。

三社祭は浅草で最大のイベント。浅草神社の祭礼だが、神輿渡御では浅草寺の本堂前で神輿を一揉みして、宝蔵門を潜り仲見世を抜け雷門からそれぞれの町内に向けて渡御していく。この時ばかりは雷門、宝蔵門の大提灯が畳まれるのだ。凡そ100万人の人出で往時を思わせる賑やかさになる。「盛り場」という言葉が似合う街が浅草ではないだろうか。

浅草神社拝殿(三社祭)

山門(雷門・正式には風雷神門)(昭和35年(1960)再建 鉄筋コンクリート造 松下幸之助氏寄贈)