今から1200余年前に修験の行者、役の小角によって鍾乳洞が発見され「観音の霊窟」といわれている。「奥之院」に当る鍾乳洞の入口には積年の石灰石の雫により積み上げられた鍾乳石の形が勝道上人の誕生伝説と相まって十一面観音立像の後ろ姿に見立てられ、子授け、安産、子育てにご利益があると信仰されている。
また、扁額の筆者について問い合わせたところ古い資料が散逸して分からないとのことで、勝手な推量で筆者名を書いている。ご存知の方があったら教えてほしい。
大悲の滝(奥之院の脇。出流川の源流。ここで滝行が行われる)
秋海棠と修験道の寺
所在 栃木市出流町288
宗派 真言宗智山派
本尊 千手観音像(伝空海作)
創建 (伝)天平神護元年(765)
開基 (伝)勝道上人
日光中禅寺を創建。現輪王寺、
二荒山神社の創建に関わったと
の伝承がある。
坂東33霊場17番札所
後ろ向き十一面観音像
(役行者によって発見されたという。石灰岩が長い間の風雨によってこの形になった)
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奥之院(左の観音像を祀るために建てらた。懸崖造り)
山門扁額 (「出流山」 静闈(?)筆)
薬師堂扁額(「薬師堂」智山派61世化主・当寺住職 竹村教智師筆)
山門(仁王門)(享保20年(1735)建立)
本堂扁額 (「観世音」 真言宗智山派11世化主 覚眼大僧正筆)
植物学の泰斗、牧野富太郎博士の著書の中に、秋海棠に関する随筆がある。
「秋海棠は断じて我国には自生していない。それがあるように見えるのは、もと栽えてあったものから解放せられて自生の姿を呈している(中略)。そしてその自生姿を展開して繁殖している場所がいつも御寺の境内とかまたその付近とかに限られている。」その例として和歌山の青岸渡寺、千葉の清澄寺とともに「野州のある寺」を挙げている。
その野州のある寺とは「万願寺」のことだろう。野州とは下野国、現在の栃木県に当たる。
JR宇都宮線或いは東武鉄道の栃木駅から凡そ40分ほど。1時間に1本もないバスに揺られて途中石灰岩の採掘場を仰ぎながら辿り着く。
出流山、千部ケ岳、剣ヶ峰など4~500㍍の低山の懐に抱かれるように建つ真言宗の古刹、満願寺は山岳信仰の匂いを残し、役行者の伝説も伝える。北西の山間部を南東へ流れる出流川の源流が当寺の奥の院の脇にあり、そこから大悲の滝と呼ばれる8㍍の落差で落ち込み急流となって境内を下っていく。川の両側の崖地に秋海棠は群生している。
薄紅色の花が俯くように、清少納言がいう萩とは違う嫋やかさが出流川の石を噛み、白濁を残しながら流れ去る荒々しい急流と好一対の風情を醸し出している。
「美女立テリ秋海棠ノ如キカナ」(正岡子規)
秋海棠には「断腸花という異名がある。その謂れを知らないと、違和感がある。永井荷風の「断腸亭日乗」などを思いだしたりして。
「昔々あるところに大変美しい女性がおりました。その女性には何物にもかけがたい男がおり、毎日毎日の逢瀬を楽しみにしていたのですが、その男、故あってその場所に行けなくなってしまったのです。女性はきょう来てくれるか、明日は会えるだろうかと毎日待ったのですが、男は現れません。女性の毎日流す断腸の涙が凝り固まってそこに美しい花が咲いたのです。その花はちょうど美しい女性のようなので何時しかその花を断腸花と言うようになったとか。」
中国の昔話が日本にも伝わってきてそのまま異名として残っている。
牧野博士が明末から清初の園芸家、陳淏子の秋海棠評を教えてくれる。「秋色中ノ第一ト為ス―花ノ嬌冶柔媚、真ニ美人ノ粧ニ倦ムニ同ジ」と激賞している。まあ今だったらこのような表現で評するかどうか。
山懐に抱かれた満願寺にふさわしい花でもある。きっと修験者も花の風情にいっときの厳しい修行を忘れたかもしれない。
秋海棠追想
薬師堂(享保年間(1715)の建立)
本堂(大御堂)(明和元年(1764)建立)