三国街道須川宿
泉峰山 泰寧禅寺
芭蕉の「奥の細道」の中で山形の立石寺を訪れた時のことが記されている。
その文に擬えるならこのようになる。
『須川宿に泰寧寺と云山寺あり。西国より来る真改という僧の建立にして、殊清閑の地也。一見すべきよし』
その大分が国道17号線となっている三国街道は中山道の高崎から分かれ北陸街道の寺泊までの関東と越後を結ぶ古くからの重要な交通路であった。上杉謙信の関東侵攻、江戸期の参勤交代など三国峠越えに利用したという。
高崎宿から寺泊宿までの35次、12番目の須川宿は衣を替えて伝統工芸や、コンニャク等の作り方を体験できる24の施設と資料館、食事処等を備えて「たくみの里」として観光客を呼んでいる。そこから緩やかな坂道を20分ほど登ると左手に大きな自然石に「泰寧禅寺」と彫られた碑が建っている。傍らに露座の地蔵像と風雨に晒されお顔も判別しにくい六地蔵がある。小川に架かる石橋の奥に急な石段が鬱蒼とした杉木立の間に見える。
ちょうど紫陽花の時季に訪れた。薄青色の紫陽花が塀の腰板のように石段に案内をしてくれる。見上げる。石段の踊り場に建つ山門は和唐折衷の重層門で、石段を登るとともにその偉容を現してくる。
山門を潜り、さらに石段を登りきると、正面に本堂が建つ。後から付けたのだろう唐風の向拝を除くといたって質朴な建物はこの自然の中にすっかり溶け込んでいるようだ。以前山岸副住職にどのくらい経つのかお尋ねしたら「まだ新しいんですよ。200年ぐらいです」と生徒に教えるようにおっしゃる。明治6年,ここに須川小学校が開校したという。実はこのことを知って、法灯を守っておられるお父上のご住職が校長でご子息の副住職が教師のように思えてならない。ご住職は面白いお方で歯に衣を着せぬ話は楽しい。お歳は?と訊ねると「私は算数が苦手だから歳の勘定はできなくてな」などとおっしゃる。ご子息は真逆のようで一つ一つの質問に教え諭すように静かに答えて下さる。下世話に言えば「絶妙のコンビ」である。
「お陰様で今年は紫陽花が花を付けました」と静かなしかしどこか嬉しそうに話されたのは副住職。ここ数年、花を付けなかった。多少がっかりしながらそれでもお二人にお会いするのが楽しみで訪れてきた。
訪れる人も決して多くはない。それでもこの日、若い男女5人がご朱印を受けに来た。なんでも里のこんにゃく作りの体験でその合間に訪れたという。「最近は若い方たちが立ち寄るようになりました」とやはり嬉しそうにおっしゃる。
静寂な空間は日頃の慌ただしさから別世界に遊ばせてもらっているようだ。この時季まだ蝉の鳴き声も鳥のさえずりも聞こえない。梅雨時に訪れ、わずかに雨の降る音が耳に届く。
四季折々に情景は変わるが静寂さとご住職、副住職との会話の暖かさは変わらない。何度訪れても飽きないお寺である。
せめて芭蕉翁の足の爪ほどの句でも詠めればいいのだが・・・。
所在 群馬県利根郡みなかみ町須川
宗派 曹洞宗
本尊 聖観音菩薩
創建 延慶2年(1309)鎌倉時代末期
開山 真改
中興開山 洞庵文曹(玉泉寺8代) 天文6年(1537))
開基 細川綱利(熊本藩細川家4代藩主)
創建時は臨済宗であった。乱世故永住する住持なし。漸く世の中静謐になり、月夜野町下牧の三峰山玉泉寺8代の洞庵文曹和尚の隠居寺に望み給うにより泉峰山と号して曹洞宗の中興開山となられた。
その後法灯は連綿として伝わり、25世大愚和尚の代に至り遠州(現静岡県袋井市)の秋葉総本殿可睡斎より、その御分躰が勧請奉安され、火防守護の霊場として広く信仰されている。
(同寺発行「泰寧寺略記」より抜粋)
六地蔵
法灯を守るお二人
本 堂(寛政7年(1795)竣工 現在に至る)
本堂内扁額(無学愚禅書 江戸後期 曹洞宗僧 加賀大乗寺43世)
山門(宝暦7年(1757)年建立 建築様式は和様と唐様の折衷。 2階全体が強風の時は南北に揺れ動き、風が止むにつれて旧位置に復するという。2階には釈迦牟尼仏を中心に16羅漢像が安置。また天井画があり花鳥、龍、天女などが描かれている)
紫陽花と夏の花
鐘楼