寛 永 寺

上野というと「花見」をすぐに脳裏に浮かべてしまう。花見が梅から桜にとって代わっていったのは平安時代らしい。かの兼好法師は「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と言い更に無風流な人に限って、花は散ってしまった、見る価値もないと言いたがるものだとおっしゃる。無風流の極みにある私なぞはやはり桜の盛りが良い。
上野の桜は寛永寺開山の天海大僧正が植えたという。ただ格式高いこのお寺では江戸庶民には宴を張ることは禁じられていた。五代目柳家小さんや十代目柳家小三治が語った「長屋の花見」の舞台である上野のお山は明治に入ってから創られたはずだ。今でも公園の桜の下に場所を取るのは容易ではない。やっと確保したブルーシートでコンビニで買ってきたのかインスタントの食材を並べて静かに飲み食いをしている。なんでも放歌高吟は禁止されているとか。それでも人いきれと猥雑さはこの時期特有の上野の風物詩ではなかろうか。

東京国立博物館から東京芸大の辺りに来ると人影もまばらになり喧騒は途切れてくる。寛永寺に向かう途中に桃花堂という茶房で一服するのが習わしにしている。ここには彫刻家北村西望の書による屋号が掛けられている。
更に人との行き交いは少なくなる。
黒塗りの冠木門を通して本堂がある。天海大僧正が西の叡山に対して東の叡山「東叡山」と号し、延暦寺と同様、時の元号を寺号としている「東叡山寛永寺」である。
最盛時は現在の上野公園一帯が寺域という広大な広さを有していた。当時の面影を残すのはわずかだ。ひっそりとたたずむ現在の本堂は子院であった大慈院の敷地に川越・喜多院にあった本地堂を移築したもの。正面に架けられた「根本中堂」の掲板が盛時との落差を如実に語るかのように侘しく映る。
本堂の周辺にほんのり桃色の花弁を付けた桜だけが本堂のモノトーンに彩りを添えているのも今の寛永寺にふさわしいのかもしれない。静謐な雰囲気は最後の江戸幕府の将軍、徳川慶喜の謹慎がまだ解けていないような錯覚を起こしてしまう。
本堂と向き合うように鐘楼がある。この梵鐘は芭蕉の詠んだ「鐘は上野か・・・」ではなく、もとは4代将軍家綱の廟にあったものだそうだ。時を知らせる鐘だった寛永寺の梵鐘は上野大仏のある大仏山にあるそうだがまだ見たことはないし、鐘の音を聞いたこともない。
桜の花弁が風に吹かれている中で、珍しく本堂でご朱印を戴けるという。若いお坊さんが朱印帖に筆を走らせる中、訊いてみた。
御本尊絶対秘仏かと。お坊さんしばらく考えて「そうとは言えません。徳川様のご法要の折にはご開帳します」と。その時に紛れ込んで・・・と言うと、筆を置いて破顔一笑「それは無理ですよ」 「じゃあ徳川家の縁者になれば?」呆れたように今度は苦笑を浮かべて「そうなれば拝めますよ。どうぞ」と朱印帖を手渡された。
鐘の音が聞こえたような錯覚に落ちる。「鐘は上野か浅草か」 
上野公園の喧騒の中を舞う花弁ではない静かに舞う寛永寺の桜の下で無風流な私は改めて喧騒な宴のある処に戻った。 
                                   

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所在 東京都台東区上野桜木1丁目14-11
宗派 天台宗(関東総本山)
本尊 薬師如来(秘仏)
創建 1625(寛永2)年
開基 徳川3代将軍・徳川家光
開山 南光坊天海(諡号・慈眼大師)

寛永寺と五重塔の桜

本堂扁額

松尾芭蕉

現 東京都所有、上野動物園内。初代は1631(寛永8)年に建立されたがすぐに焼失。1631(寛永16)年に古河城主土井利勝によって再建された。
寺号に創建時の年号を持つ寺院は延暦寺、建長寺と
当寺である。開山の天海は武田信玄、葦名盛氏などの武将に参謀として招聘され、家康の宗教政策、朝廷工作に携わり篤い信頼を受けた。
殊に3代将軍家光に信任は篤く、寛永寺の創建に係わり17世紀半ばには日光山、比叡山をも管轄する天台宗の総本山に寛永寺を発展させた。
寛永寺はそれまで増上寺が担っていた菩提寺の役割も併せ持ち、山号も東の比叡山とし、現在の不忍池を琵琶湖に見立て弁天堂を建立するなど、現在の上野公園一帯を寺領にする壮大な伽藍を誇った。
しかし、1868年(慶応4)の上野戦争でほとんどの堂宇を焼失するとともに、神仏分離令により、東照宮とも別れてしまった。
江戸中期の大名・松平定信が編んだ「集古十種・扁額之部」によると『江戸東叡山中堂額 東山院宸翰」とある。東山天皇筆

1686(慶応4)年に焼失した根本中堂を同寺子院の大慈院(現寛永寺)の跡地に川越の喜多院にあった本地堂を1879(明治12)年に移築し現在に至る

根本中堂(本堂)

東叡山 円頓院 寛永寺
(とうえいざん えんとんいん かんえいじ)

花の雲 鐘は上野か浅草か

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旧寛永寺五重塔