kenken's

平安時代の天長6年(829)淳和天皇の勅願によって、慈覚大師円仁が開山。大師は自らの手で薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来の三本の仏像を刻まれ、本尊として祀り、疫病除災等の祈願をされたと伝えられている。創建当時は広大な寺域に堂塔伽藍が建ち並び、多くの塔頭を擁し、盛況の中にあったが、源平の乱に於いて戦火を被り、全てを焼失したと言う。
その後、鎌倉時代の文暦元年(1234)比叡山より信尊上人が来院され、河田谷殿の庇護のもと4人の弟子と共に復興に努力され、中興を成しとげた。
その弟子の1人尊海は、川越の喜多院中院等を次々と復興すると共に、法脈からは多くの英才が輩出し、ここに関東談林が開花し、関東天台の台頭へと発展する。
このことにより当山が関東天台の祖山といわれるものである。
しかし、戦国時代の争乱の中で度重なる火難を受け堂塔伽藍を焼失した。
江戸時代に至り、勅願寺の故を以って幕府の庇護を辞退する中にも、その由緒により、御朱印地50石の内の不入地4万坪のみを拝領するところとなり、堂塔も次第に整備され、宝暦2年(1752)には、山門、鐘楼を除き殆んど完成するに至った。現在の建物は大体この時代のものである。
なお、当山には、国指定重要文化財の阿弥陀如来座像(弘長2年(1262)銘)を始めとし、石の仁王像、雨乞いの龍など貴重な文化財が伝えられている。
              (埼玉県・桶川市掲示より抜粋)

東叡山 泉福寺

山門扁額(「東叡山」筆者不詳)

所在 桶川市川田谷2012

宗派 天台宗(別格寺院)
本尊 阿弥陀如来・地蔵菩薩
創建 天長6年(829)【平安時代】
開基 淳和天皇(勅願)
開山 慈覚大師円仁

をクリックするとオートスライドします

「日常以上旅未満」泉福寺そして菖蒲園を訪れて

訪れたのは梅雨に入る前だった。JR高崎線桶川駅から1時間に1本というバスに揺られたのは20分ほど。駅前のわずかな繁華街を抜けるとすぐに畑、雑地が広がる。山並みは見えない平坦な道をバスは走る。途中降りる人はいても乗る人はいない。小高い丘がバスを降りると雑木林か杉林か少し重たい緑色を刷いて眼前にある。5分ほどか、緩やかな坂道を昇ると右手に形のいい仁王門が見える。凡そ1200年前、平安時代に慈覚大師円仁によって創建されたと伝えられる天台宗の東の叡山として東叡山という号を持つ古刹泉福寺。石造りの仁王像が睨む山門の姿は軒の出が深く、昔は茅葺だったのでないかと思わせる。山門の扁額はその山号を彫り込み当初は金色に彩色したのだろうが多くは剥落し地の黒が顕わになっている。筆者は分からないと寺で訊くとおっしゃる。

眼を奥に移すと敷石の先に本尊の一体、木造阿弥陀座像を祀る宝形造りの阿弥陀堂がある。国指定の重要文化財に指定されて今は収蔵庫に納まっていると案内板に書かれていた。ご開帳はされるのかを訊いたが、今のところはその予定はないと、多少申し訳なさそうに答えてくれた。正面の向拝には菊のご紋章があり、淳和天皇の勅願寺であることを教えてくれる。

阿弥陀堂に向かって右手に本堂が先の深緑色の樹々を屏風のようにして建つ。改めて正面に立って見る。寄棟造りの大屋根に鴟尾を載せ、行基葺きの瓦が雲に隠れているとはいえ薄い日差しに鈍色をわずかに輝かせている。大屋根から側壁への瓦は緩やかに長く流れ、正面の閉じられた栗皮色の扉と白壁に支えられているが軒の出が浅いせいか全体が軽やかに見える。訪れる人に会わない。鳥の鳴き声も聞こえず、ましてやいつも耳にする都会の騒音は全くない。風もなく樹々のささやきもない。無音の世界の中にいる。以前訪れた雨の日の叡山の幽谷に身を置いた時とはもちろん違うが静謐な空気に包まれると、時の流れが本堂屋根の緩やかな流れと重なるような錯覚に陥った。「草花がほとんどありませんね」とお寺の方に訊くと「いえいえ、お寺の周りはもう少しすると紅花の鮮やかな黄色に包まれるんですよ」。そういえばバスからみた側道に「べにはな祭り」の幟が立っていたのを思い出した。

泉福寺と高崎線を折り返しに置いたようにある菖蒲城址のあやめ園に帰途やはりバスで立ち寄った。あやめ園の菖蒲が咲く期間は臨時バスが運行されて泉福寺に訪れるような不便さはない。菖蒲の節句に完成したというので名付けられた菖蒲城の城跡に花菖蒲が植生されている。園内には50種、16千株の花菖蒲が少し早くはあったが紫、白、薄紅そして黄と色とりどりに花弁を広げている。ここに城があったというのは園内に建てられた石碑を見ない限り分からない。

泉福寺、あやめ園を合わせて見ると一日を費やしそれこそ「日常以上旅未満」を味わうことができる。

鐘楼

石造仁王像(左 吽形 右 阿形)

本堂(宝暦2年(1752)再建

山門【仁王門】

(菖蒲城址あやめ園花菖蒲)

菖蒲城

所在 久喜市菖蒲町新堀

古河公方足利成氏が、康正2年(1456)に金田式部則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5菖蒲の節句にであったために命名された。天正18年(1590小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。現在のあやめ園の入り口には内藤氏の屋敷門が置かれている。


花菖蒲12態

【菖蒲城址あやめ園】

阿弥陀堂向拝に載る菊のご紋章

阿弥陀如来座像(重文・境内案内板より)

阿弥陀堂(宝形造り宝暦2年(1752)再建?向拝に菊のご紋章がある)

東叡山勅願院円頓坊泉福寺

本堂扁額(九峰信虔師(?)筆)