鎌倉には多くの谷戸がある。「やつ」と呼んでいる。鎌倉は一方が海であり、三方が小高い丘陵に囲まれている。谷戸は鎌倉の丘陵が侵食されてできた無数の小さな谷で人々の住まいや寺院の立地となった。その谷戸と谷戸を結ぶ「切通し」もまた鎌倉独特の景観を作っている。
浄智寺はその谷戸の一つに建立された。
JR横須賀線、北鎌倉駅を降り、鎌倉街道を建長寺の方へ歩いていく。東慶寺を過ぎると右手に「浄智寺」と彫られた石柱が目に入る。
鎌倉五山第4位、創建当初は円覚寺の規模に匹敵し七堂伽藍を擁した大寺院だったという。
背後には葛岡・大仏ハイキングコースがあり、その北鎌倉側の最高点を「天柱峰」という。この名は浄智寺の住持にもなった14世紀に元(中国)の来日禅僧、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)がこの峰を愛し「天柱峰」と名付けた。
天柱とは中国古典では「世を支える道義・正しい道徳」を意味し、師の思想や文学活動を象徴する言葉であったのかもしれない。天柱峰から見ると谷戸の寺院空間と尾根上の眺望点が一続きになっている。中世の禅寺が伽藍だけでなく背後の山などを含めて一つの景観世界を構成していることが実感できる。その世界を建物に掛けられて扁額にも現れている。
瓦葺の切妻屋根を載せた簡素な総門には禅語の「寶所在近」の扁額。円覚寺開山の無学祖元の筆によるもので法華経の中の一句「「寶所在近、此城非實」((宝のある場所は近い。この城は仮のものにすぎない)に由来している。宝所は仏教では「「悟り・涅槃の境地」を意味し、浄智寺では「修行を積めば心の平穏が得られる」という易しい意味合いで説明してくれる。
総門を潜ると両脇を鬱蒼とした木々に囲まれた花道のような石段がある。風雨と何百万という参詣者の足によって研削された証のように石段の縁は丸みを帯び、段は柔らかな凹凸を描いて何百年という星霜を重ねた姿が続く。その頂に山門が見える。
平成19年(2007)に再建された山門は梵鐘を楼上に吊り、火頭窓をしつらえた珍しい鐘楼門。ここにも扁額がある。
「山居幽勝」・・・扁額の揮毫は徳川家康に仕え、後に隠居のため京都・詩仙堂を造営した石川丈山。楷書の面影を含んだ隷書体は私など素人にも分かりやすい。「静かで奥深い山の中の住まいは、この上なく素晴らしい場所だ」 いかにも浄智寺辺りの環境を言い表している。丈山の時代であればなおさらだろう。丈山揮毫の扁額は野火止(埼玉県新座市)の禅寺・平林寺にもある。
最奥に仏殿(本堂)が正面ではなく横にある。禅宗の伽藍様式の一直線上にはない。浄智寺の歴史を見ると創建当時は七堂伽藍を備え、塔頭11院を擁する円覚寺に近い規模だった。室町時代末期から戦国時代に寺勢が衰え江戸時代には現在の伽藍配置となったようだ。さらに関東大震災(大正12年)で多くの建物が倒壊している。仏殿も被害に合ったが昭和7年(1932)に再建された。
「曇華殿」という。曇華は優曇華のこと。3000年に一度、如来が現れる時にしか咲かないという仏教伝説の植物。曇華殿には阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の三尊を過去・現在・未来という「三世」にわたって人々の願いを聞き入れ救ってくださる「木造三世仏坐像」がおられる優曇華のように大変尊く重要な堂という意味が込められている。残念ながら筆者についてはわからないでいる。
天柱峰から眺望する浄智寺に往時の壮大さは窺うことはできないが、コンパクトな現在の姿の中にも清浄な凛とした雰囲気を味わうのは私だけではないだろう。


浄 智 寺 秋 色
浄智寺 扁額雑感
総門扁額(「宝所在近」無学祖元筆)

浄 智 寺
葵門(脇門)
ご朱印
山門(鐘楼門)

仏殿本尊 三世仏
(現在・過去・未来を表し向かって左より阿弥陀・釈迦・弥勒各如来 南北朝時代作)
葵門扁額(「梅花樹下」 吴興裎〈1792年)筆)

仏殿(本堂)扁額 (曇華殿 筆者不詳)
山門扁額(「山居幽勝」 石川丈山筆)
仏殿(本堂)
総門
所在 鎌倉市山之内1402
宗派 臨済宗円覚寺派
本尊 三世仏
創建 弘安6年(1283)
開山
開基 北条師時(10代執権)
鎌倉五山第4位



