どういうわけか何度か訪れてはいるが一度として真っ盛り、という時にあたったことがない。従って梶井がいう「あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気」には出会っていないのだ。早すぎたり、盛りを過ぎたり、時には今にも雨が落ちてきそうな時だったり・・・
清雲寺は無住だそうで、檀家の方や在の方が守り続けているという。それでも訪れるたびに仰ぐのが本堂の扁額である。何の木だろうか一枚板の片に寺号、山号が書かれている。「己亥」の年に書かれたのか、或は書家の年齢なのか「さあね、誰の書なのかね」とご朱印を押しながらあまり興味なさそうに呟いたのは在の方だろう。この本堂にふさわしい扁額に思えてならないのだ。
樹齢600年或は200年を超える枝垂れ桜が多くの人を集める。エドヒガンの変種とか。エドヒガンは長寿だそうだ。山梨県北斗市の神代桜は1800年とも2000年ともいわれている。そういえば秩父のどこのお寺だったか、大風の吹いた後訪れたら立派な枝垂れ桜の幹が折れてしまっていた。「まだ若いのにねぇ、惜しいことをしました」とお寺の方がおっしゃる。どのくらいか訊いたところまだ200年ぐらいだという。
花笠のように枝を張り多少樹勢に衰えは見られるようだが薄桃色というよりは薄墨色に見える花弁の群れは枝木の墨色と重なって怪鳥のような不気味さを湛えているように見えてしまうのは時期を逸しているからだろうか

ペリーによる黒船来航を機に、江戸幕府の勢威はようやく衰えをみせ薩長両藩の討幕運動はここ秩父にも押し寄せてきた。慶応4年2月、時の右大臣大炊御門家信は関東の地に有力な公家を送り、尊王派を結集することによって討幕の機運を煽り、王政復古の実をあげようと計画、家信の嫡子尊正をこの任に着け、20日にここ清雲寺に着いた。彼はただちに忍藩大宮郷代官所に綸旨を発し代官松平下総守の出頭を命じたが、代官はこれに応じず、尊正の滞在する清雲寺を取り囲み、不意をつかれた尊正一行は、敵対する術もないままことごとく斬殺されたという。秩父清雲寺事件と言われている。
「戦いの最中についた刀傷の跡があるし、本堂の中には鉄砲の痕もあるから見ていきなさい」と扁額の時の素っ気なさとは打って変わって熱心に勧めてくれた。
尊正の墓は裏手にあるという。
2月下旬ではまだまだ蕾は硬かったろう。
梶井は「桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!」と書き出している。もしかしたら尊正は本当は墓の下ではなくこの桜の下にいるのかもしれない。
いつか盛りの枝垂れ桜を仰ぎながら神秘な雰囲気を味わってみたい。

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Kenken's

古木の枝垂れ桜

本堂扁額(書者不詳)

本堂

山門(奥に本堂)

清 雲 寺

岩松山(がんしょうざん)清雲禅寺(せいうんぜんじ)

「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。・・・・」           (梶井基次郎「桜の木の下には」より)

所在 秩父市荒川上田野690
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 延命地蔵
創建 文安3年(1446) 室町時代
開山 楳峯香(ばいほうこう)禅師

桜の古木