鎌倉・駆け込み寺

松岡山 東慶総持禅寺(しょうこうざん とうけいそうじぜんじ)

東 慶 寺

旧本堂扁額(「東慶総持禅寺」 後宇多天皇宸筆)

【縁切り寺の東慶寺】

開山の覚山尼が東慶寺に奉公すれば夫の縁が切れるという寺法を定めてから、妻から離婚請求が可能になった明治時代までの凡そ600年間、その定めは守られてきた。その間に駆け込んだ女性は数千人にのぼると言われている。
このような特別扱いは、覚山尼を始め、5世 用堂尼は後醍醐天皇の皇女、20世天秀尼は豊臣秀頼の息女。というようにそれぞれの時代に有力者の息女を住持に迎え、更に江戸時代には徳川家と縁が強く、群馬県の満徳寺と共に幕府公認となった。

本堂(泰平殿)

所在 神奈川県鎌倉市山ノ内1367

宗派 臨済宗 円覚寺派
本尊 釈迦如来
寺格 鎌倉尼五山 第2位
創建 1285(弘安8年)
開基 北条貞時(第9代執権)
開山 覚山尼(第8代執権北条時宗夫人)

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横須賀線 北鎌倉駅を降りて鎌倉街道を建長寺方面に10分も歩かないうちに着く。臨済宗の750年ほどの歴史を持つ古刹、東慶寺に。正式には松岡山東慶総持禅寺という。鎌倉の有力御家人の安達氏の女性で、鎌倉幕府8代執権北条時宗の正室であった覚山尼(松岡殿)の開山であったところから明治時代中期までは本山を持たない松岡御所とも呼ばれ特別な格式を持った尼寺だった。大正1291日、マグニチュード7.9という大地震、関東大震災は鎌倉の多くの神社仏閣を破壊した。東慶寺もまたその7年前に建てられた茅葺屋根を乗せる鐘楼を除いてほぼ倒壊してしまった。谷戸と呼ばれる丘陵地が浸食された谷に細長く狭い地に東慶寺はある。
石柱門を過ぎ、石段を登りきると茅葺・棟門の味わいはあるがささやかな山門。潜るとまっすぐに墓苑へ導く石畳の径を行く。僅かに奥まった地に緩やかな反りが美しい宝形造の本堂が関東大震災後に建て替えられて現在に至っている。正面に掛けられた扁額「波羅蜜」(「迷いの此岸から悟りの彼岸(ひがん)に渡る」の意)は建長寺を開山した宋僧、蘭溪道隆師の筆によるものと落款を含めて判断したのだがどうだろう。堂内には大小の輪を縦に2つ並べた光背を負う釈迦如来坐像を中央に3人の尼僧がおられる。左に大坂夏の陣で滅んだ豊臣秀頼の娘であり、千姫の養女となった20世天秀尼、右には開山覚山尼と後醍醐天皇の皇女5世用堂尼。3体ともどこか苦を湛えた表情に見えるは穿ち過ぎかもしれない。石畳を歩くと右側に松岡宝蔵と名を冠した宝物館がある。ここに旧本堂の扁額が置かれており写真を撮っていいかと訊くと「どうぞご遠慮なく」と。
「二月やなほ風さむき袖のうへに雪まぜにちる梅の初花」中世の賢帝とも言われ、南北朝時代の萌芽であり、対立関係にあった花園天皇からも「天性聡敏、博覧経史、巧詩句、亦善隷書」と称賛を受けた後宇多天皇の宸筆だそうだ。石畳の両側には草木がいつ訪れても花を咲かせている。圧巻は本堂裏の谷戸特有の崖を絡むように這い上っているイワガラミ、別名ユキカズラと呼ばれる蔓性の木。毎年6月の花が咲く頃を見計らって本堂の回廊伝いに特別に見せてもらえた。谷戸特有の崖面いっぱいに蔓を這わせ、紫陽花に似た白い花を付ける。その景観は緑釉陶板に白い花を絵付けしたように見える。もう一つ、墓地近くの崖面に紅紫色の星のような小さな花を付けるイワタバコがある。愛煙家としてその名に親しみを覚えるのだ。ここに咲く花を挙げるときりがない。それこそ花の寺である。

2022年6月7日に思わぬ新聞記事を眼にした。
東慶寺が「境内における撮影禁止について」と題して「カメラ、スマートフォン
と問わず、境内における一般参拝者の撮影行為を禁止させていただきます」と。
最大の要因は撮影者の態度にあるようだ。「お寺であることを忘れ、本堂をお参りしない方も多く、足元に咲いている花や苔を踏みつけ、進入禁止の場所に入り込んだり、勝手に物を動かしたり、見境がない人も出始めました。」更に「なにより残念なことは、特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖がつき、目の前のことに対して、「心」で感じるのを忘れてしまったことです。」とご住職はおっしゃっておられる。

東慶寺は昔、駆け込み寺だった。今回は私たちに「三行半」を駆け込み先から突きつけられた気がする。いずれの日か三行半を破きましょうと言ってもらえる日を待つ心境でいる。

(掲載写真は禁止以前に撮影したものです)

東慶寺追想

花春秋

本堂扁額(「波羅蜜」 蘭渓道隆 筆(?)

山門

鐘楼
(1916(大正5)年に建立。関東大震災で唯一倒壊しなかった。梵鐘は1350(観応元)年に鋳造され、材木座にある補陀落寺より移した)